東海・名古屋最大級の風俗グループ カラーグループ

 
名古屋の風俗事情について
名古屋の風俗の歴史について、ここで少しだけ知っている範囲内でご紹介致しましょう。
現在、名古屋の風俗はファッションヘルス・デリバリーヘルス・ホテルヘルス・回春メンズエステ・ニューハーフヘルスとあり地域については広く、名古屋西側方面にある中村区・名古屋駅裏と言われている名駅・名駅と錦の間に位置する納屋橋・名古屋の中でも一番の繁華街である錦3丁目その錦からちょうど東に行くと東新町・その先に名古屋新栄・今池・池下・そして東区にある大曽根と…様々な地域に点在しており、その広さは東海中部地区では一番です。
では、一体とこがその名古屋の風俗の中でスタートなのか・・・そしていつの時代なのか・・・気になるところです。

調べていきますと名古屋の風俗の歴史は深く江戸時代までさかのぼるらしく、なんとスタートは熱田神宮のある熱田周辺だったらしいです。
「宮宿(みやじゅく)」の名前で知られる、現在の熱田神宮周辺は江戸時代の以前より交通の要所であり、東海道の中で最も大きな規模を誇った宿場町であり、熱田神宮の門前町でもあったようです。

「新修名古屋市史」大正4年(1915年)刊によると、熱田に遊女というものが生まれたのは、二説あるようで、その一説は寛政12年(1800年)の頃、「熱田新田」を開くにあたって、築地に「オカメ」と呼ばれる遊女を置いたことが始まりであるとし、もう一説としては寛政11年(1799年)、中島に縫針女を置くのを許されて始まり、享和年間(1801~03年)には焼失して廃業したという記述があります。いずれにしても、熱田の遊里は1800年頃には存在していたようです。


面白い記述をご紹介しますと、次のような記述が「新修名古屋市史」に見られます。

「オカメとは当初醜婦多かりしより、いわゆる阿亀の面の如しとて、予備習はせりしまるべし俗謡に、~宮の伝馬町に新長屋が出来て生きた阿亀が袖を引く~」

とあり、熱田の遊女は不名誉な評価を受けていたそうです。

ちなみに「阿亀の面」とは、例のお多福の仮面、丸顔で鼻が低く、おでこでほおの高い女性を指していると思われる。 いわゆる「ブ○」ということでしょう。

その後も熱田ではこの「オカメ」という俗称が遊女を表す言葉になったといわれており、もしかすると今言われている名古屋は「日本三大○○の産地」という不名誉な名古屋女性に対する俗説も実は江戸時代、交易の一大拠点であった、この熱田宿から発信されたものではないかと推測されます。


戦災や天災を経て現在、熱田宿の面影をとどめる建物は極めて少ない状況であるが、かつてこの地で遊里があったことは紛れもない事実なようです。

その後、昭和20年(1945年)8月15日。太平洋戦争が終結し、愛知県は名古屋市をはじめ、多くの都市や町が空襲の被害を受け、壊滅的な状況の中、混乱の時代を迎え、その中でその戦後の混乱期の風俗営業についてはどうだったかというと『国際享楽ナゴヤクラブ』というのがキーワードとなってきます。

そもそも、戦後における「享楽営業の復活」については、1945年8月18日、終戦のわずか3日後の8月18日に内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令したことに端を発しています。
この通達を受け、愛知県でも連合軍の慰安所開設に向けての動きが活発になっていき、『敗戦時全国治安情報 第5巻』(粟屋憲太郎/川島高峰編集・解説 )によれば、昭和20年(1945年)9月、愛知県知事への調査報告書として以下のような記述が見られる。
『連合軍進駐に対する慰安所開設に関して、有力者5名が『国際享楽ナゴヤクラブ』(仮称)の設立を画し、ダンサー、女給、案内人の募集の為、名宝(元文ママ)四階に於て応募者の詮索に着手し、9月14日より17日の4日間で、ダンサー211名、女給219名、案内人250名の志願者あり』とある。
愛知県も例外なくこうした「国策慰安所」を開設する動きをみせていたことを示す資料であります。
驚きなのは、日本の戦後風俗史はなんとアメリカの軍人に対しての慰安婦としてからのスタートだったようです。

こうして終戦後わずか1ヶ月の間に着々と愛知県下でも「国策慰安所」を作る動きをみせていたわけだが、『愛知県警察史第3巻』(愛知県警察史編集委員会編集 昭和50年刊)によれば、連合国軍の県内進駐に対し、昭和20年(1945年)9月18日に愛知県副知事を局長とする「愛知県渉外事務局」を設置している。
この局を中心に警察の関係部課が協力して進駐軍の受け入れや接遇にあたったと記載がある。
そもそもなぜここで愛知県警が出てくるのかと疑問に思うんですが、この「国策慰安所設置」の通達が「橋本内務省警保局長」の名で各府県知事にあり、その中で「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として、一、(省略)ニ、前項の区域は警察署長に於いて之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす三、警察署長は左の営業に付ては指導を行ひ設備の急速充実を図るものとす(性的慰安施設 飲食施設 娯楽場)以上のような内容が書かれていたためである。
もともとこうした慰安所や遊廓の経営に明るくない愛知県内の警察署長が、愛知県下の「有力者」に協力を求めた形で『国際享楽ナゴヤクラブ』の設立、運営を図ったのではないか?と考えられます。

ただ、連合軍相手の「国策慰安所」が各地で続々と開設されたが、その運営期間は短かったみたいです。
1946年(昭和21年)1月21日、GHQ最高司令官アーレン大佐の名で「非民主的で婦人の人権を侵害する」という理由で「公娼廃止」の通達が下され、占領軍司令部は「公的売春」の全面禁止を命じたからである。
しかし、これは表向きの理由で、本来は違うようで、ある文献によれば、占領軍内部では、急速に性病患者が増加したことに加え、本国にこうした慰安所が各地にあることを知られ、出征兵士を待つ家族会の懸念や風紀の乱れを嫌う軍人会からの苦言があったことが記されている。これが「国策慰安所」廃止の最大の理由だったらしいです。

その後は説明するまでもなく、「国策慰安所」は連合軍兵士が登楼を禁止された影響で、経営は思わしくなくなった。また、こうした特殊飲食街を取り巻く環境も、連合軍司令部の意向により、年々厳しくなっていった。
そして、今の風俗はその時代時代の流れに流されながら新たなものを作りつつ、修正しつつ、今ある風俗として成り立つようになりました。